モネの名は「印象主義者」の一語と分かちがたく結ばれている。彼をそう呼ぶことは、印象主義絵画のもっとも果敢な実践者であり、その理念のもっとも純粋な体現者であったこの画家に対する最高の讃辞であろうし、彼もまた、終生そのことを誇りにしたのだった。
だが、言葉、とりわけ呼称は、つねに楯の半面を蔽い隠す。モネに、異論の余地なき純正な印象主義者の称号を贈るとき、あるいはまた、モネ自身の口から「私はいまでも印象主義者だし、いつまでもそうでありたいものです」(1880年)といった言葉を聞くとき、人は往々にしてこの巨人に、印象主義の鋳型にぴったりとはまる面だけを見てとることで満足してしまいかねない。たとえば、新印象主義の理論的擁護者フィリックス・フェネオンは、もっとも早くモネを印象主義者の典型として聖別して一人であるが、それは讃辞というより、むしろ、「科学的」な新印象主義によって乗り越えられてしまったと彼の信ずる、「ロマンティック」な印象主義第一世代への弔辞であった。
「クロード・モネ氏は衝動のままに描く画家である。『印象主義者』なる語は彼のためにつくられたのだし、彼ほどにふさわしい人はいない。何かの光景に触れると、やみくもに彼は動く。だが、精緻に見つめたり、分析したりする人では、けっしてない。・・・その才能は、レトルタの連作以来、成果をあげていないようだ」(1888年)。
フェネオンの見解は、三年後の画期的な<積みわら>連作を見るに及んでも、いささかも変わることがなかった。つまり、この炯眼な評論家にしてなお、「印象主義者」の鋳型にこだわるあまり、連作以降のモネの個人的、精神史的革命のもつ深い意義から目を蔽ってしまったのである。
だが、<積みわら><ポプラ><大聖堂><テムズ川>と続く一連のシリーズこそ、モネの後半世の無二の友クレマソーが正しく指摘したように、言葉の二重の意味でのレヴォリューション(循環・革命)の発端であった。そして、この「シリーズ」から「循環」への展開が、それ固有の地上的でしかも宇宙的な型式と出会ったとき、オランジュリー美術館の睡蓮の池の壁画が生まれたのである。むろん、この大いなる冒険は、印象主義者モネの足跡を消し去ったわけではない。「総合主義者とでも呼んでいような晩年のモネにとって、次第に大きな総合的効果に到達するためには、時間をかけた細かい分析から出発しなければならなかった」(ティエボー・シソン、1920年)にちがいないからである。けれども、この冒険が、他のいかなる印象主義者もあずかり知らぬモネ固有のものであったことは、あらためて強調されねばなるまい。なぜならそれはたんにモネのユニークさを物語るだけではなく、スーラ、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホらがいち早く次代に及ぼした半世紀にわたる影響をも飛び越えて、二十世紀後半の美術に巨大な影を落としつつあるからである。
戦後、最初にモネを再発見したのは、1950年代のアメリカ、ヨーロッパにおける不定型抽象絵画の実践者たちだった。「セザンヌが知らずにキュビスムの予言者とされたように、モネは知らずに今日の若い世代の予言者となっている」(レオン・ドゥガン、58年)。しかし、モネの射程はそこまでではない。60年代末、アメリカのパサデナ美術館は「シリーズ的絵画表現」展を組織して、前世紀末から今日まであらゆる文化領域に浸透した「シリーズ」の概念が、美術の領域では、モネによってはじめて表現を与えられたものであることを立証した。このようなシステマティックな表現方法と、その対極ともいうべき不定形抽象絵画とが、ともにモネを第一の先駆者と仰いでいる事実ほど、彼の芸術の見かけ上の単純さの奥にひそむ複雑な性格を物語るものはあるまい。モネの晩年の総合とは、印象主義者モネが知らずに抱え込んでしまったいくつかの矛盾の開花であった。オランジュリー美術館の壁画は、これらの矛盾の上に築かれた、水面上に倒立し、私たちの眼差しの高さで無限に循環する穹窿にほかならない。天の模倣ならぬ、人の目の高さの穹窿―それはすでに、ヨーロッパの言葉をもってする、ヨーロッパからの壮大な逸脱だったのではあるまいか―。